おじゃまします ―協豊会 西川東海地区副会長に聞く

 協豊会広報委員会は11月1日(金)、広島県広島市の西川ゴム工業㈱本社に於いて、西川社長にインタビューを行いました。
西川社長には会社概要、沿革、企業体質の強化へのお取組みや、東海地区副会長として、協豊会活動へのお考えや思いなどのお話を伺いました。

「会社概要、沿革についてお聞かせ下さい」
 ◆会社概要・沿革◆
 もともと広島は縫い針産業が集約化されているところでした。私の祖父はその針工場に勤めていたのですが、昭和9年(1934年)にそこからスポンジ部門を独立し会社を始めました。何故「針からなのだ」ということで、私も伝え聞いた話なのですが、当時は針を東南アジア等にも随分輸出していたと。そして、その「日本から持っていく船の、帰りの船を活用する方法はないか」ということで、東南アジアの生ゴムを持って帰って何か商売をすると、往復の便が活用できるというアイデアがあったみたいです。そのようなことからゴムに着目し、しかも普通のゴムだけでは面白くないということで発泡ゴム、俗に言う「スポンジをやろう」と始めたのが昭和9年です。その後、原爆で会社が遣られてしまい、戦後の昭和24年になって今の『西川ゴム工業』という会社が株式会社として出来ました。ですから、昭和9年と昭和24年のどちらを弊社のスタートの年にするかと言うことでは両方あるわけですが、創業で言えば昭和9年だろうと思います。
 会社がスタートして暫くは、まだクルマも何も無い時代でしたから、自転車やオートバイのサドルのクッション材となるスポンジ製品とか、サンダルやゴム毬・ゴムボールの様なオモチャ的な物とか、日用雑貨ばかりを造っていました。その中で、昭和26年頃に米軍の進駐軍・GHQの方から軍用車両のドア・パッキング、今で言いますと、我々のメインになっております「ドアシール」の補修用として、古くなった物を取り替えたいというお話が、ある商社を通じて来まして、それに対応したのがクルマに関わったきっかけになろうかと思います。
 当時、私もまだ小さかったもので、聞いた話ばかりですけれども、実際に「米軍車両の仕事をやっている」と、そう言えば、「地元にマツダさんという自動車メーカーがあるよね」と。「じゃあ自動車をやるならちょっと戸を叩いてみようか」ということからマツダさんとのお取引が始まりました。当時の車は三輪車でドアは二つだけ、水さえ漏らなければというような感じだったろうと思います。
 そこからだんだんもっと視野を広げれば、「日本中に自動車メーカーさんが一杯あるじゃないか」ということで、我々から見れば上へ登ったという表現になるわけですが、大阪に行き、東京に行って、トヨタさんはその後だったと思いますけども、順次、お取引を広げて行ったという歴史でございます。
 私の祖父は原爆で会社の建物が全壊したときに、もう精神的にガックリきてしまい、広島弁で「わしゃ、もうやめる」と言って会社を退き、そこで父が経営を引き継ぎました。もともと父も病弱ではあったし、俗に言う文学青年で、本当は作家を目指していて色々な同人誌にも寄稿していたようです。そして、会社の仕事をやりながら作家として文章を書くのは非常に難しいということから、絵を趣味として描いていたようです。父にしてみれば人生の目的が急に変ってしまったことで、経営者をやることについては随分抵抗があったようです。「俺の人生はこんな人生で無かったはずだ」と。
 父は、三十年の間社長をやりました。その間、胃癌が見つかり、直ぐには亡くならなかったのですが、癌が見つかったということで叔父にあたる父の弟が社長を引き継ぐことになりました。この期間が約5年くらいであったのだろうと思いますが、実は、叔父には喘息の持病がありまして、ある日突然、出社途中に車の中で喘息の発作が起き急逝しました。或る朝、突然です。私はまだ専務でおりましたけども、社長が亡くなったということで出張先の浜松から急遽呼び帰されて、当時はまだ父も存命しておりましたので、父の方から「お前が社長をしろ」と。当時、私は37歳でしたが、「やがては私が社長になるのかな」という漠然たる思いはありました。ただ、叔父である社長がそんなに早く亡くなるとは思っていませんから、社長になる心構えも何もないまま、あれよあれよという間に社長だと。先ほど父の話を出しましたが、私も望んで成ったわけではないという気持ちがあり、やはり覚悟が決まるまで暫くは、期間がかかりましたね。

 ◆海外展開・新規事業について◆
 私も今年でもう二十八年目に入り、「ああ、親父の三十年がもう目の前だな」というところであります。振り返れば、父の三十年は日本でのモータリゼーションにのり会社を大きくして行きました。私の二十八年は、私が社長になった年に初めての海外進出となるアメリカに出まして、それから中国、タイ、インド、インドネシア、メキシコ、そして、今年度決めたブラジルと、全部で7カ国に進出しております。私が社長の間に何をやったのかと言われると、私の代はどちらかというと、『グローバル化』ということではないかと思っております。
 このグローバル化は、バブルが弾けてデフレがずっと続いて来た中で、「国内だけでは食って行けないぞ」という思いがありました。1986年に初めてアメリカに進出した時は、まだバブルが弾けてない訳ですから、当然これは、お客さんに付いて出たということだったのですが、実際に90年代にバブルが弾けてからグローバル化を加速したのは、「軸は一本より二本の方が良い、二本より三本の方が良い」という思いがあるのと、当時から自動車メーカーさんがどんどん海外に工場を出して行かれるのを見て、「これは付いて行って、外に出て行く仕事を追って行かないと、やはり国内だけではやがて仕事が減る」という思いも強く持っておりました。
 社員を海外に赴任させることについては、実は本当に心が痛いのです。社員を海外に赴任させて、そこに住まわせなければならない。しかも、現地の人を相手にして仕事をさせなければいけないといことについては、非常に申し訳ないという気持ちが多々あります。しかし、誰かに行ってもらわないといけないということです。年に2回ほど、各拠点から日本に帰らせてグローバル会議をやるのですけども、その冒頭での私の挨拶は「本当に申し訳ない。だけど貴方たちが居ないと困るのだ」と謝罪の言葉から始めています。
 私は春と秋を中心にして、年に2回くらいは海外の各拠点に行くようにしています。ですから海外出張は、年に10回はマストですね。目的はお客様に会うこともありますけど、一番の目的は現地へ行って私の思いを伝えて、懇親を図ることです。日本人の社員と現地の社員を出来るだけ沢山集めて、皆で一杯飲んでわいわいやる、「仲良くやってくれよ」ということ、そこに一番の目的があるのです。
 海外資本との提携について言うと、最初にアメリカに進出したときの資本比率は、我々が60%、相手が40%。タイも合弁で進出し、次に中国は100%で進出しました。このように海外進出を経験して行く中で、更にいろいろグローバル化しなければいけないということは分かっておりましたから、このままいつも100%とか90%で出るには限りがあると。お金の面もありますけども、先ず人材的に「これは続かなくなるぞ」というような思いもありました。100%で出るか、50%以上取って出るか、マイノリティで出るか、あとは技術供与だけで済ませるかとか、いろんなパターンがありますが、やはりその時、「その時に応じてどのパターンで出るかをよく考えて出ないと」というような思いです。もちろん、100%で出られるところは出た方が良いとは思うのですが。 
 ブラジルやインドにおいては、我々のグローバル化の経験を持ってしても「本当に100%で経営が出来るのか?」特に労務管理については、どんなに優秀な日本人を持ってしても、その地固有の文化・慣習など、いろいろ分からない中で、さらには、インドではストライキも頻発するところですから、弊社が100%での経営は出来ないだろうという思いもあり、ブラジルとインドでは、既存の会社への資本参加といたしました。
 アメリカも一時期、かなりの日本バッシングがあったころに、得意先だったビッグ3さんの方から「日系が過半数を取っているところとは取引をしない」と言われた時代があり、60対40で出たのをやむを得ず50対50にしたことがあります。その時は、物事が決まらない。なかなか決まらない。もう喧々諤々、トップ・ミーティングと言いながら何を話しても結論が出ない、という経験をしました。その時に、もう50を割るか、越えるか、どちらかにしないと難しい、50対50が一番難しいと感じました。
 もう一つは、私どもは全自動車メーカーさん、日系を含めてビッグ3さんともいろいろお付き合いをさせていただいており、幅広くお取引させていただいております。それでも、自動車業界という面では軸は1つです。売上の中で自動車関係のみというのもやはり良くないということで、自動車関係以外を伸ばすということを、懸命にやってきて、化粧品パフ、住宅、いわゆるプレハブメーカーさんの外壁と外壁の間のガスケットとか、弊社の技術を生かして、自動車以外の分野という面も揚げていろいろとやっております。

 
「環境変化が激しい中、体質強化のお取組みについてお聞かせ下さい」
 ◆企業体質の強化◆

 昨今、皆さんの会社もそうでしょうが、非常に売価が厳しくて、やはり先ずは原価低減ということで、弊社は、『西川コスト・レボリューション活動』、先頭の文字を取って『NCR活動』を4年ほど前から取り組んでおります。これは総原価低減ということで、製造原価低減のみならず、一般管理費も物流費も含めた原価をとにかく部門・部門だけでは出来ないような切り口のことをいろいろやって行こうというもので、専務が旗振りをして年間の投資予算もつけ、推進しております。
 その中の基本は、「スピード・アップ」です。我々の会社は、「ゴムを練って、押出しをして、成形機でコーナー成形をして」というのが基本的な流れです。まず、最初のゴムを練る、これを精錬工程と言いますが、「このサイクル・タイムをもっと早くしろ」と言っております。例えば、今まで10分でワン・バッジを出していたのを、6分で出せるようにしろということです。そのためにはボトルネックを発見し、そこを改善するということを行っております。押出し工程ではラインの短縮化です。以前はそのラインは100メートル以上の長さがありました。そこで、「これを半分以下にしろ」と言っています。ゴムというのは段階的に加硫するというのが一般的な方法なのですが、それを改善するということです。もちろん、そこにはいろいろな技術開発を必要とします。今では、もう殆どのラインは長さを半分以下に短縮しました。当然、これはエネルギーの節約にもなりました。それに併せて更にスピード・アップをしろと言いました。1分間当たりの押出しスピードをどんどん早くすると言うことです。それには新しい配合の開発も要るわけですが、そのようなライン短縮と押出しのスピード・アップということを、押出しラインではやりました。
 最後は仕上げのアッセンブリです。押出したひも状の仕掛品を完成品にするわけですが、その中の最初はコーナー成形です。ひも状の仕掛品のコーナーを作ってエンドレスにします。この工程の成形機の回転数を上げるようにしました。もちろん、品質確認は全て行ないながらやります。その1つの方法として、高速高圧注入という技術を取り込みながら行いました。その他にも、いろいろな新しい取組みをして成形機の回転数を上げてきました。それと最後の仕上げのところも、以前は、成形したものをハンガーに架けて回しながら、単作業・単能工法で10数人の作業者を並べるコンべア・ライン方式でやっていました。この方式は、一車種で多量に作る製品においては効率が良い方法です。ですが最近は、もう一車種あたりの生産ボリュームが以前より少ない設定台数となっていますので、これでは、量変動に付いて行けないようになってきています。フレキシブルに対応できないということで、この仕上工程ではセル方式、いわゆる屋台方式を取り入れております。要するにコンベア・ライン方式からセル方式へここ5年間で変えて、今ほとんどがセル方式となっております。これを行うには、作業者の技能訓練にかなりの時間を要します。単能工、コンベア方式ですと、1つの作業を教えたらすぐラインに投入できるのですが、セル方式の場合には、全部の工程を教えて入れなければいけないので、その工程に入れるまでに非常に時間がかかります。それでもセル方式の方が量変動にフレキシビリティーがあるということで、今はコンベア・ラインからセル方式に変えております。今では、海外への導入を進めております。精錬、押出し、仕上げと、各工程において、具体的に言えば今話したようなことをやってきました。キーワードは「スピード・アップ」です。スピード・アップしていくと何が良いかというと、もちろん省エネもあるわけですが、設備に余力がでてきます。従来よりも少ない設備で済み、設備がどんどん余ってくる。その設備を撤去すればスペースが空きます。またそれらを利用して、新しいモデルが立上る時は使用できます。以前は新しいモデルが立上る度に成形機を購入して、人も雇用し、そのモデル専用の仕上げラインを作ってやっておりました。今は、余らせた設備を利用して、最小限の投資で済ませております。スペースも空け、設備も余剰を作り出していますが、これは、仕事が減って余剰になっているわけではないのです。
 そういうことを全て自力でやってきましたが、大変な努力がそこにあり、セル方式一つ変えるにしても技能訓練の在り方を全て変えていかなければいけないなど、塗炭の苦しみはいろいろあったわけです。そうしないと生き残れません。そのためにもキーワードが要るのです。スピード・アップ、回転数アップ、アップそしてアップです。
 このような改善に対する取組みをやろうと言ったのはトップ・ダウンですが、やはりそれを実施させたのは危機感からくるものです。実施については、社員のボトム・アップ活動です。私が目標を示し、実際にアイデアを出して実行してくれる部隊はボトム・アップでやってきました。そして、予算を私から取っていくのが、その活動のヘッドである専務なのです。それをやるためには工場だけではなく、生産技術や設計分野やいろんな多部門に渡る活動が要るわけですので、そこのトップが横通しで指示をしないとできません。でも実際の実行力を引き出した一番はやはり危機感だったと思います。このままでは生き残れないという危機感です。


「安全、品質」などのお取組みについてお聞かせ下さい」
 ◆安全◆
 安全はとにかく第一として、本気で取り組んでいます。常に『安全第一』という意識を工場長以下、管理職に持たせるという意味で、私が現場点検を行うときは、先ず安全から入ります。例えば、「安全装置が本当に効くのかどうかをどうやってチェックしているのか?」「成形機の安全はどうやって確保されているのか?」と聞くと、「エリアセンサーが有ります」と答えれば、「そのエリアセンサーが間違いなく効くのはどうやってチェックしているのだ?」というようなことまで聞くようにしています。以前はすぐ『5S』から始めていたのですが、トップ自らが安全に対する意識を現場点検のときに示すということが大切であると感じています。
 安全に関して弊社では、「これだけは最低守りなさい」という基本的な安全行動を全部合わせれば「止める・呼ぶ・待つ」になるわけですけども、それをもう少し噛み砕いて、監督者と現場の人がそれぞれで守るべき安全ルールとして『安全ルール・ブック20』という小冊子にしています。それを徹底して教え込むことにしています。そして、テストを実施することとしています。これは、回答を4項目から選択する方式でのテストですが、50点満点になるまで教え込めとしています。この間の社長診断において、「平均45点ですから、ほぼOKです。」と工場長が言うものですから、「満点でなくて何がほぼOKだ」、「安全は、満点でないと駄目だ。残りの5点のところから大事故が起こるのではないか!」と、一喝したのです。
 日本の企業は特に、「社長は社員を愛さなければ駄目、社員は会社を愛してくれないと駄目」。これが日本の良さであるし、それが無いと日本で商売は続かないということの中で、社員の涙と汗は流してもらわなければなりません。涙の出るときもあるでしょう、例えば、海外赴任中に夜の一杯も呑んでいれば、涙が出ることもあるでしょう。だけど、血は流してはいけない。何が何でも血は流してはいけない。私は安全について、「汗と涙は流してもらわないといけないときがある、でも血はどんなときがあっても流してはいかん」という言い方をよくしております。
 やはり、安全装置だけでは災害はなかなかゼロには成りません。安全も『躾』だと思うのです。だから常日頃から『躾』のための土壌を作るには、社長が安全に対しての意識を如何に示すか、現場チェックのときも先ずは安全から入る、ということを特にここ1~2年心がけています。

 ◆品質◆
 品質の面ではいろいろなセンサーなども使ってきましたけど、基本的には『作業要領書』を守らせること。そのためには『作業要領書』の質を上げなければいけないということで、これを随分と見直してきました。この中に、カン・コツを入れるように指示もしました。以前は、ただ動作が記載してあるだけのものでした。今は、取る時にも、「右手の三本で取れ」とかの非常に細かい動作まで入れたものとなっています。カン・コツも入れてそのようにしています。でも逆に、これでは詳し過ぎて最初から読むのが嫌になるくらいのものになっているので、出来るだけビジュアル化(写真等を多く使って)したものになっているのですが、これも少し行き過ぎていることもあり、指摘することもあります。
 そこで、最近私の方からは、「作業要領書に『iPad』をもう少し使うことも考えなさい」と言っております。書いたものではなく、『iPad』にベテランの作業を一つ一つ映して、その中で、例えば画面を止めたりしながら、「ここが、カン・コツなのだよ」と思考しなさいとしています。品質では作業要領をとにかくきっちりと守ってもらう、または守りやすいルールにすること。中には守れないルールや、守りにくい作業もありますので、作業要領書の在り方について、真剣に取り組んでおります。
 それともう一つは逆療法ですが、「検査員を減らしなさい」と言っています。検査というのは重要な作業だけれども、付加価値は何も生んでません。今までは、各工程で順次検査をし、最後に検査専門員が最終検査で見ているのですが、その「最終検査を外せ」としています。というのは、最終検査という関門があるから順次検査に危機感が無いといえる部分もあるかと思います。1つの方法として、最終検査を遠くに持って行って見えないようにし、現場の人には「最終検査はもうないぞ。あなたらが出したらそのまま流れてしまうよ。」と言うこともあるかと思います。継続して安定している工程では、思い切って最終検査を本当に外すこともありますけども、特に新しく立上った製品はなかなか工程が安定しませんから、立上って何ヶ月の間はこっそり最終検査で見ているのです。
 私が言いたいのは、要するに「順次検査で保証しろ」ということをやらないと、検査人員が増えるばかりだということです。最後の品質はもちろん保証しなければいけませんが、やはり現場での緊張感といいますか、私が現場で見ていても最終検査があるのとそうでないのとでは、順次検査をする人の緊張感が全然違うと感じます。「検査員を減らせ」、これは工程能力を上げて検査員を減らせと言っているのです。

 ◆開発◆
 開発に付いては、ゴムのドアシール、俗に言うウェザーストリップという部品を作っている中で、今、自動車メーカーさんからの我々に対するニーズは、「もうお宅の部品は水を止めるのは当たり前だ、音を止めてくれ」とのことです。つまり、NV性能を上げることに対しての要求です。これはトヨタさんに限らず、かなりの自動車メーカーさんから「音の外からの浸入を防いでくれ」との要求があります。高周波、低周波いろいろあるので、上を押さえると下が出てくると言ったように、音に関しての研究は難しいので、試験設備は、音に関する測定機器とか、音を発生させる機器とか、最近は音の機器ばかりを買っています。もちろん軽量化のニーズもありますけども、もともと我々はスポンジゴムですから、重量はそう何キロも減るものでもないのです。
 そういう面では、一番のニーズは音です。ドアとかボデーとかの方が面積もよほど大きくて、「ドアシールは隙間しかないのに何故か」というと、ドアとかボデーは質量が高いので音は防げるのだろうけれども、シール等の我々の部品はスポンジゴムで質量が低いということで、音が抜けやすいということだろうと思います。要するに、生き残っていくための他社製品との差別化を出すには『音』であると思います。キーワードは、『音』です。吸音、遮音のようにテクニックはいろいろあるのですが、我々はもともと化学屋、ゴム屋ですけので、音を知っている人、従来とは違った人材が欲しくなってきているのです。またこれは、今自動車以外で増やそうとしている住宅などにおいても、遮音などの研究結果をいろいろ活かせることになります。

 ◆グローバル人材育成◆
 企業体質の中で、グローバル化ということではグローバル人材の強化にも取り組んでいるのですが、中々急には進みません。常に40~50名くらいが海外に赴任しており、それを少しずつ減らすようにもしていますが、支援で海外へ行かせるにしても、またこちらに来させて教えるにしても、グローバル人材が要るということです。愚痴になりますが、そのような面では苦慮をしております。グローバル対応で業態がどんどん広がっている中で、必要なお金は借りたり社債でも出せば調達できます。それはそれで大変なのですが、人材ばかりは「今日無かったものを明日」というわけには行きません。人材を育てるスピードが追いつかないのです。ですからこのことは、企業体質強化の取組みというよりも大きな悩みです。


「東海地区の副会長さんとして、協豊会活動についてのお考え、メッセージをお願いします」
 私は、協豊会はカーメーカーと部品メーカーとが一体となって非常に良い活動をしているので、さらにそれをアクセラレートしたいと思っています。
 私がもともと協豊会の経営者懇談会に行ったときに、(これは幹事になる以前から常に思っていたのですが)特に広島から行きますから、往復の新幹線代と出張旅費を貰って、黙って何の発言もしないで帰るというのは非常に勿体ないことだという思いがありました。とにかく発言をして帰るということで経営者懇談会にはずっと出席していました。先ずは、「手を挙げる」、「挙げてから言うことを考える」というくらいに、発言をしようという思いでおりました。せっかくトヨタさんが部品メーカーとのコミュニケーションの場を設けてくださっているのに、ただ一方的にトヨタさんからのプレゼンの情報だけ聞いて帰るだけでは勿体ないと思うのです。
 そういう気持ちでやっていて、幹事になってからも出来るだけ部品メーカーの社長さんとトヨタさんとの間のコミュニケーションを如何に図るかを考えています。やはり30~40人集まって非常に堅苦しい雰囲気ですから発言しにくいのはよく分かります。私だって出来ればしたくない雰囲気はあります。幹事になっても、まず一発目に私が発言をする。最初にポンと出ると後が出やすいということで、コミュニケーションをしやすい場を作ることを心がけております。


「ご趣味、座右の銘、健康法などお聞かせ下さい」
 ◆ご趣味◆
 趣味は『B級グルメ』ですね。インターネットでいろんなレストランの情報を探して、女房と食べに行き、「これは安くて美味しいね!」とか、「安いけど不味い・・・」とか、そういうB級グルメを楽しんでいます。私は、戦後昭和23年生まれで、もの心付いた頃には美味しいものがそんなに無かった時代ですから、やはり安くて美味しいものを食べると幸せ感が非常にあって、「ああ、美味しいものを食べれたな」という、そういう気持ちになるものですから、B級グルメを楽しんでいます。お惚気となるのですが、女房との小旅行、殆ど土曜日は潰れることが多いのですが、たまに土日を連休で休めると、一泊で九州へ行ったり、四国の方へ行ったり、もちろんクルマで行って、温泉に入って美味しいものを食べて帰ってきます。
 趣味の面では一人で出来る趣味を何か作りたいなとは思っています。というのも親父は絵をやっていましたし、叔父は自分の家に温室を作って蘭の栽培をやっています。どちらも土日、一人で時間を潰せるわけです。私は付き合いならゴルフもしますし、釣りにも行きますし、いろんなことをやりますけども、基本的に人と群れて遊ぶという趣味ばかりです。私もいつリタイアをしようかなと考える年になったわけですが、何年か前に女房と酒を飲んでいて、「俺もぼちぼちリタイアを考えようかな」とか言ったときに、「お父さん、いつ辞めてもいいけどもね、辞めたあとに私に縋り付かないでね」と、女房の言ったことがショッキングでした。要するに、「朝から付き纏わないでね」「晩御飯は作るけど、あとは、貴方の時間としてやってね」と言うことです。女房は私の居ない時間、世界が出来ているわけで、そこに私が入っていくと彼女にしてみるとエイリアンですよ。うちの専務が囲碁と書をやるのですが、何か一人で出来る趣味を何か・・・。ただ趣味というのは意図的に作ろうと思っても飽きてしまうのですね。一度、版画の通信教育を申し込んでやったことがあるのですが、三ヶ月で止めてしまいました。理由は、宿題がどんどん来たからです。

 ◆座右の銘◆
 座右の銘は、会社の一つの理念と一緒ですけど、父から受け継いだ『己の立てる所を深く掘れ そこに必ず泉あらん』です。これはニーチェの本の中にある言葉、と父が言っていたので、本当かなと思ってあるとき見たら、確かにニーチェの文章の中に有りました。これは私のプライベートの人生訓ではなくて、会社の社長をずっとやって来た中でのものです。これで一番良かったと思うのは、バブルのときに他社さんがレストランをやったり、ゴルフ場をやったり、手を広げられたところがかなり有ったわけですが、弊社は一切そんなことはしないでやってきたことです。一つのことをずっとやっていると、その技術がずっと深くなって行く。一つの技術が深くなると、その間口もだんだん広がってくる。要するに、先に間口を広げるなと言うことです。縦に先に掘っておけば、だんだん間口も広がってくるという事で、あれやこれや間口ばかり先に広げることを考えるなと言うことです。 
 いま、弊社ではいろんな素材を発泡化させるというスポンジの技術を持っています。何もゴムに限らずいろいろな素材を発泡化をする技術です。それとシールを設計する技術ですね。シーリング材を設計する技術です。この二つが「己の立てる所」だと思います。これに今、『音』が入りつつあるというわけです。



本日はお忙しいところ、ありがとうございました。





西川社長(中央右)を囲んで・・・
  石塚広報委員長 (太平洋工業㈱ 取締役専務執行役員):右
  黒崎広報副委員長 (パイオニア㈱ 上席常務執行役員):中央左
  小谷事務局長 :左
   協豊会タイム